やりたいこと

時間が無い。

院試の出願までの時間である。2週間である。信じられない。

 

気が付いたのは、五月祭が無事に終わり、一息つけるなという心境で行った院試ガイダンスでである。メンタルブレイクだ。さらにガイダンスに来ていたほかの人や院生の方の話を聞いて、この時期には皆かなりやりたいことを絞っているということを知り愕然とした。自分はというと、はっきりとやりたいことはまだ全然見つかっていないのである。つらい。

 

ここからは、自分が物理学科に進んだ経緯を書いていく。そうすることで、したいことが少しでもわかればと思うからである。

そもそも、自分は数学者になるつもりであった。小学校と中学校の卒業文集か何かにはそう書いてあるはずだ。しかしながら、高校に入ってからだんだん意欲を失っていってしまった。今思えばあほである。数学の理論というのは最初はよくわからないが、わかってしまえば非常に面白いということには物理学科に入ってから気づいた。もっと早くに気付くべきであった(まあ正確にはもっと色々な事情があるのだが)。それでまあもう数学者になるという夢は薄れたわけだが、しかしなぜ数学が好きであるかというと、それは(仮定を認めれば)完全に正しい創造物だからである。「これらの仮定からこういうことが出てくる」が絶対に正しい創造物、と言ってもいい。どうも私という人間はこういう完全なもの、絶対的的なものが好きらしい。だから、人生をかけてやることとしては、実験物理ではなく理論物理、ということになる。さらに言えば、現象論でなく基礎論である。

物理との出会いは、宇宙だったように思う。「漫画で知ろう天文学」という本である。地球の外に膨大な未知の世界が広がっている、という事実は、私を非常に興奮させた。恒星の一生に思いを馳せ、ブラックホールに中二し、宇宙の大きさに畏怖の念を抱き、またそのダイナミズムに魅了された。次にであったのは量子論であっただろうか。日常に実はまったく意味不明な非日常が潜むという事実に、これに摂りつかれない人はいるのだろうか、という感覚を持った。相対論的な世界観、時間が遅れ空間が曲がる、という驚愕の事実にも大変な衝撃を受けた。

しかしこれらは中学生の時からの話であって、再度いうがこのときは数学者志望である。ではどこで物理学者志望に切り替わったのか。それは、これはかなりはっきりとしているが、東進の苑田と駒場量子論の清水のせいである。そこで、物理学というのは、数学的に、言い換えれば公理的に、つまり「絶対的なもの」として、記述されているというものであった。これは嘘である。少なくとも先端の理論について、現時点では。この当たり前の事実に気付いたのは理物に入ってからしばらくたってからで、詐欺じゃないかと思った。しかしまあ仕方ない。ちょっとまとめると、物理を志したのは、主要な項として、「数学で」自然を記述し、また「数学」をもちいて自然の基本方程式を見つける、というアクティビティーに非常に憧れたからである。今だからわかるが、残念なことにこれは物理学の一つの側面でしかない。しかし、一生をかけるならやはりこういうことの研究でなければならないだろう。二次の項としては、やはり非日常の世界を知りたい、というところだ。であるから、私の興味は一般に(大きさなりなんなりの)スケールのlogの絶対値に比例している。もっと言えばそのスケールはやはり大きさである。要は大きいもの(宇宙)と小さいもの(素粒子)をしりたい(これは大事な問題である。書いてて思ったが、やはり宇宙論と素論の両方をできるところがいいのではないか)。この二次の項があったので、一次の項は軽く詐欺だったがそれでも物理を続けようということになったのである(それじゃあ数学は三次以下かといわれるとあれだが、一つ言えるのはもう一回人生があれば次は数学者を目指すということである)。

それでまあ現も宇宙論(相対論含む)と素論に興味があるわけだが、くわえて量子情報などもある。疲れたのでここまでにするが、続くかもしれないし続かないかもしれない。